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2018年12月

2018年12月31日 (月)

ゆく年くる年

人生は冥土までの暇つぶし
本日のオンライン記事をチェックしていたところ、食生活ジャーナリストである大久保朱夏女史の記事が目に留まった。
まだ「おせち」食べる?気になる正月の風物詩

『残念和食にもワケがある 写真で見るニッポンの食卓の今』(岩村暢子 中央公論新社)という本を取り上げた大久保女史、時の経過とともに変わりゆくおせち料理を取り上げており、興味深く読んだ。

ところで、目を引いたのは以下の行だった。

同書の編集を担当した主婦の友社の中島由佳子さんは、「小さな子どもがいる30代女性を意識して制作したが、おせち作りは男性が意外とハマるかもしれないとも思っている。男性は女性に比べて相対的に段取り上手で、ハレの料理が好き。一家の大黒柱がおせちを作る家庭が増えていく可能性があるのではないか」と話す。

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「おせち料理は男が作るもの」と、今は長期入院している母から、子供時代に幾度も聞かされていたのを思い出した。よしゃ~、今回の正月には間に合わないが、その次の正月にでも、おせち料理に挑戦してみるか…

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大久保女史の記事を読み進めていくうち、少しずつ昭和三十年代の記憶が蘇ってきたところで、今度は山岸勝榮先生のブログ記事にアクセスしてみた。
家族が一年で一番忙しかった日、12月30日

昭和三十年代初めあたりまでだったと記憶しているが、亀さん家では自宅で餅を突いていた。しかし、いつの間にか近所の米屋から半畳ほどの大きさの餅を数枚買ってくるようになり、現住所に引っ越してからは餅突き機を使うようになった。今でも、暖かい冬日の差し込んだ部屋で、母が突きあがった餅を切っていた情景が目に浮ぶ。家あるいは米屋さんの突き立ての餅の方が、スーパーで買うパック入りの餅よりも、はるかに美味かったものだ。

山岸先生の記事で、特に印象に残ったのが以下の行だった。

戦後の誰もが貧しかった時代、家族が揃って「歳取り」が出来ることは本当に幸せなことだった。


亀さんが子どもの頃は、大みそかには一家全員が集まり、年越しそばを食べながら、紅白歌合戦、続いてゆく年くる年を見るのが恒例だった。残念ながら、昭和三十年代のNHKのゆく年くる年の動画は見つからなかったが、代わりに以下があった。


行く年来る年 1959~1960

1960年の正月といえば、亀さんが小学校一年生の時なんだが、なんか100年前の動画を見ているような気がして、とても自分が生きていた時代の動画とは思えなかったwww 続いて、以下は紅白歌合戦で、やはり亀さん9歳の時のものでR。


紅白歌合戦 昭和38年

この紅白歌合戦、残念ながら全く記憶に残っていない…

さて、今日は仕事部屋の大掃除と庭仕事だwww

2018年12月30日 (日)

スピノザとサルトル

人生は冥土までの暇つぶし
掲示板「放知技」で、サルトル…、ではなくて猿都瑠さんが実にE-こと書いている。

    放知技と言うのは、自分がこう考えているから、あの人の発言はこうだと結論付ける場では無い場所。

    ありとあらゆる情報を出来るだけ集めて、あの人の発言の真意はどうなんだろう考える場所。

    その情報が考察に重要だと思う書き込み、一つの真意に向かって行くと言うこと。

http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/623/


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この投稿で思い出したのが、先日放送された「100分で名著」の「エチカ」編だ。その第4回の「真理」で出た、國分功一郎教授の発言が実に良い↓

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國分教授の謂う「幸せに至る道は物事を認識していくことをベースとしている」とは、どういうことか? こういうことだ…↓

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つまり…↓

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ところで、どさくさに紛れて「ま~」という輩が以下のような投稿をしていた。ま~、この輩は上品な言葉を使えば「荒らし」、亀さんの言葉でいけば「蛆虫」つうワケだ(爆) 次回は「ま~」ではなくて、「バカぁ~」というハンドル名での再登場を期待したい(嗤)

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/607/

ところで 飯山さんの史観についてだが、「ま~」とやら、飯山さんの史観についての何が「日本史のウソ」つうことになるんだい。ココの読者にもわかるように、説明してくんない?

ま~、無理か、お前のドタマでは…。精神年齢が12歳だもんな(爆)

2018年12月29日 (土)

海上の道 02

人生は冥土までの暇つぶし
前稿「海上の道」の続編を書かせていただく。テーマーは、西太平洋に浮かぶヤップ島で長年生活している、suyapさんのコメント『海を渡った「縄文人」』についてだ。suyapさんは日本生まれ育ちの生粋の日本人で、過日(11月25日)の「故飯山一郎氏を送る会」にも、遠路はるばるヤップ島から駆けつけてきてくれた、正真正銘の大和撫子である。

最初に、suyapさんが住んでいるヤップ島は、どこにあるのかを確認しておこう。以下の地図は、冒険家の高野孝子女史のサイトからお借りしたものだ。

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さて、拙ブログに寄せられたsuyapさんのコメント、『海を渡った「縄文人」』は以下の通りだ。

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suyapさんのコメント、『海を渡った「縄文人」』の投稿があった当日、亀さんは久方ぶりに世界戦略情報誌『みち』のまほろば会に出席、続いて翌日は高麗郷を散策している。その報告記事を書くため、suyapさんへの回答記事を書くのが今日になってしまったのだが、それはともかく、まほろば会のあった当日にsuyapさんの投稿があったことは、正に神計らいであった。何故なら、上掲のsuyapさんの投稿を読んでから、まほろば会に出席し、高麗郷を散策したことにより、ある重要なことについて気づかされたからである。それは、シャーマニズムの本質に迫る上で欠かせない一つに読書があるが、加えて、もう一つ欠かせないもの、それこそが体験だということを思い知らされたのだ。つまり、読書と体験は両輪の関係にあるということ。それに関連して、亀さんは掲示板「放知技」に以下のような引用を行っている。

ともあれ、シャーマンの世界を知るには、安西正鷹さんの謂う、〝来るべき新しい文明の精神哲学〟とも謂うべき、量子力学を齧るのも一つの道であり、それ以外にも多々手はあります。小生の場合、日頃のシャーマニズムの追求と並行して、過日Jinmoさんが小生に語ってくれた、天乃浮石に向けた斎行に一度参加してみたいと思っています。次回は来年の五月一日に兵庫県で行われるので、足を運んでみようかと思案中です。

斎行日程は二〇一九年五月一日と決定した。平成から新たなる時代へと移る御代がわりの、その日である。第二の岩戸開きとしての意義に於いて、この日程以上に必然を感じさせるものは有り得ない。


つまり、亀さんは「シャーマニズムの追求」の一環として、シャーマニズムに関する書籍や、Jinmoさんが『みち』に連載中の「寄絃乃儀」を熟読してきたが、単に目で追うだけでは駄目なのであり、やはり身体でシャーマニズムというものを体験しないことには、本当のこと、すなわちシャーマニズムの本質を極めることができないということを痛切したのである。だかこそ、suyapさんの以下の記述に目が釘付けになった(下線は亀さん)。

海の道を考える(想像する)にあたっては、まず海・航海・自然を体験的に「知る」ことから始まるのではないのでしょうか?そして、何千年、何万年を経ていても、人間の生活はそんなに変わるものではありませんから、現存する航海術は、やはり大きなヒントになると思います。


もう一つ、suyapさんの以下の記述…

飯山先生は「大洋を渡る船は全長6~7メートルのカイ付きの丸木船だった」と書いておられますが、発掘で出てきた櫂付の小船は、近海を海岸線づたいに移動するものでしょう。いくらか履修と季節風の助けがあったとはいえ、数十キロ以上ときに何百キロも離れた地点を移動するには、帆走しか考えられません。それに、遠洋航海はそんな気楽なもんではないです。乗船者は誰も「命がけ」は覚悟の上、しかし不安はおくびにも出さず、あっちの世界の加護を信じて祈り、まかせます


suyapさんの「あっちの世界の加護を信じて祈り、まかせます」という行を読んだ瞬間、suyapさんは、本人が意識しているかどうかはともかく、紛う方なき巫女であると思った。過ぐる日の大阪で開催された「故飯山一郎氏を送る会」、宿泊先のホテルでチェックインする際、隣から声をかけてくれた女性がいたが、最初は誰だが分からなかった。しかし、その後三次会のショットバーで、小生の隣に座った件の女性が自分はsuyapであると自己紹介してくれた時、第一印象は普通の女性と違うなというものであった。その後になってsuyapさんが巫女であると確信するに至り、何故に他の女性と違うと思った理由が分かったのである。

ともあれ、日本は関東圏の山奥(秩父山地)に住居を構える亀さんは、海というものをあまり知らないのだな、ということを改めてsuyapさんから思い知らされる形となった。

さて、舞台を古墳が誕生した南九州について筆を進める前に、放知技に投稿した上掲の亀さんの投稿、読み返してみて追記しておきたい箇所や入力ミスがあったので、次稿にて訂正したい。

【読書とは…】
若いころ、そして今も人生の羅針盤にしている、今東光語録の中から読書に関する和尚の発言を、『極道辻説法』シリーズ本からピックアップしてみた。上掲の記事に「読書と体験は両輪の輪」と亀さんは書いたが、そのあたりを納得してもらうため、殊に若い読者に何らかのヒントがなればと思い、以下に今東光語録を幾つか引用してみた。

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☆☆ 経験か読書か
 よく世間じゃ読書の大切さを説くが、本当のところ、経験と読書とどっちが人間にとって大事なのか?
(福島県いわき市平 18歳 乙)

それはバカな話で、鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのかというのと同じでな。経験して読書し、読書して経験する、という交互作用によって本というものは生きてくるし、経験というものも役に立ってくるもんでね。経験だって読書だって同じように大切だ。何をとぼけたことぬかしてやがる。てめえ、本なんざ読んだことねえんだろう、こん畜生め! だからそんな質問するんだ。
『続 極道辻説法』p.234


☆☆ 本はどう耽むべきか
 本を読むことによって、感受性・思考力・洞察力を養い、そこから何かを自分の血肉となすには、どのように本を読んだら良いのか? 和尚の思うところをお聴きしたい。
(埼玉県熊谷市筑波 浪人 20歳 匿名希望)

 そんな目的で本を読むんだったら読まんほうがいいね。本を読んで栄養になると思ったら大間違いだ。

 オレが本を読め、本を読めとすすめるのは、それを栄養にするためじゃないんだ。本を読めばいかに世の中にバカが多いかということがわかるからでね。本を読んでいても常に自主的に物を考えるんでないと逆効果になるんだ。本読んで、その本に負けて、その著者の考えに捉われたらもうおしまいだよ。いつでも〝自分″というものがこれを読んで、「オレはこの説に反対である」という意識忘れたら駄目だ。それがなかったら、読書なんてなんの役にも立たん。

 ただやみくもに活字を信用しちゃったら、洞察力も糞もありやあしねえじゃないか。そんなつもりだったら本なんか読むな、こん畜生め!

『続 極道辻説法』p.210


☆☆ 碩学になるには
 私は仏教を専攻している二十歳の学生ですが、和尚のような碩学になるには、どのような心構えで学問を修めれはよいのか? またどのような勉強方法が有効か? をお聞きしたい。  
 (尼崎市 虚無居士)

 人の勉強法を聞いて、「おかげでよくできるようになりました」なんて言う奴があったら、バカだよ、そいつは。

 オレは乱読一点ばりだったね。女郎買いにいっても、どうせ銭がないんだからフラれることの方が多いんだ。女郎はどうしても本部屋を占領している金のある奴の方へサービスよくする。オレなんて、ものの数じゃない。

オレは女郎買いに行く時にも懐ろに本を人れてった。いかなる時でも本が懐ろに入っている。ケンカしてデンと突きがきても本で受けているようなもんで、これはもう重宝なもんだった。だから、女郎屋行っても、女郎がくるまで本読んでたからちっとも退屈しなかったな。外にでかける時は、たとえどんな時でも必ず机にある本を持っていく。文学の本、哲学の本、政治の本、経済の本、なんでもとにかく読みたいものは片っ端から乱読だったよ。碩学だかどうだか知らないけど、うんと本読むということがやっぱり非常に大切なんだな。

 オスカー・ワイルドは、オックスフォード大学じゃ、いつでも一番新刊書を読んでいるんで有名だった。教授も新刊書に関する知識だけは彼に追いつかなかったというんだ。それほど、いつでも時代の先端を歩いていた。もう古典なんかさわらねえ。シェークスピアなんてどうでもいいんだ。シェークスピアのようなものはシェークスピアが書きゃあいいって調子でよ。これも文学者としてのひとつの生き方だな。勉強法としてもひとつの方法ではある。

 とにかく、どういう勉強法とか、どうしたら碩学になれるなんてこと、いくらそこで考えてたってわかりゃしねえよ。そんなこと考えているくらいなら、ゆっくりとマスかいて、頭さっぱりしてから勉強した方がいいぜ。え、お兄ちゃん。

『極道辻説法』p.21~22

2018年12月22日 (土)

古墳時代 02

人生は冥土までの暇つぶし
掲示板「放知技」で、亀さんが最も注目している投稿者の一人に、愚山人さんという常連さんがいる。その愚山人さんが昨日、以下のような投稿を行っており、思わず唸った。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16580696/34/

亀さんが唸ったのは、愚山人さんの「談合」という言葉である。この談合という言葉だが、実は日本文化の本質そのものをズバリ指した言葉なのだ。そう思っているのは、なにも愚山人さんや亀さんだけではない。世界戦略情報誌『みち』の天童(竺丸)編集長も同じなのである。『みち』のホームページには紹介されていないが、最近まで天童さんが『みち』に連載していた、「文明の原郷ツラン」シリーズの第14回、「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」に、以下のような記述がある(括弧は亀さん)。

私(天童)はかねてより日本文明の本質的特徴が「談合」にあると考えている


上掲の天童さんの記述は、『ゆがめられた地球文明の歴史』(栗本慎一郎著)のp.78~80の行に対する、書評の中に登場しているのだが、続けて天童さんは以下のように書いた。

談合の結果として出来る統治形態が、すなわち「連合」である。大和朝廷は既存勢力を打ち破った後にできたものではない。既存勢力の談合によって、ある一つの系統を支え従うこととした結果、成立したのである。

それはもう一つの政治形態と比較してみれば、差は歴然となる。つまり、殲滅戦争による支配である。シュメールもまた、都市国家同士の連合によって大帝国を築いていた。シュメールがその連合という統治形態を始めたのであろうか。記録や文書などの物としての証拠はない。だが、先行するミヌシンスク文明の末裔たちが挙ってこの統治システムを踏襲していることに鑑みれば、シュメールはこの統治の智慧を先行のミヌシンスク文明から学んだとと言っても無理はなかろう。


以上までを述べた後、天童さんはシリーズの第14回の本題である、「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」という主テーマに移り、自説を展開しているわけなのだが、ご参考までに、第14回を本稿の最後に掲載しておくので、関心のある読者は目を通していただきたい。

さて、ここで思い出していただきたいのは、前稿「古墳時代 01」に書いた、亀さんの古墳をめぐる長年の疑問である。

何故にユーラシア大陸で古墳が誕生したのか。シャーマニズム、あるいはツランに共通する膠着語という言語が関係するのか…。また、古代人にとって、古墳とは一体全体何だったのか?


シベリアの大地に出現した諸民族(ツラン)から、後に日本に点在する古墳の原型となった墳丘墓(クルガン)が、何故にシベリアの大地、すなわちツランの地で誕生したのか? それは、膠着語系というツラン共通の言語にあったのか、あるいは、ツラン共通のシャーマニズムや死生観といった宗教にあったのだろうか…。

そのあたりを解く鍵として、同じく天童さんのシリーズの第15回、「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」に注目してみた。

●巨大墳丘墓(クルガン)に関して、少なくとも何らかの発掘調査が行なわれた数例について挙げたにすぎないが、現在ウクライナ紛争やイスラム過激派テロなどによって騒然としている当該地域の世情が安定すれば、今後も史上ユニークなこの埋葬形式の発見・発掘が数多く行なわれ、その全貌が明らかになる日がやがて訪れるかも知れない。

だが、現在はまだ年代的にも紀元前四〇〇〇年から紀元前三〇〇まで相当な長期にわたり、しかも断続的な発掘例しかなく、出土地域もバラバラというありさまである。

クルガンとはいったい何だったのか、どういう人々が築造したのか、そこにそういう意味が込められていたのか等々、その実態に関して今は確たることは言えない状態である。

この特徴的な墳丘墓に関して一般にはほとんど知られておらず、歴史事典などには触れられているが、クルガンをテーマとする専著は日本にも外国にもまだないようである。

しかし、前方後円墳を各地に有するわれわれは、巨大墳丘墓がそこに葬られる権力者ただ一人のためだけではなかったことを知っている。稲村公望はかつて本誌に連載中の「黒潮文明論」において、わが国の古墳が沼沢地の水田開発や洪水防止のための河岸修築により堆積した残土を利用し工事監督責任者の徳を讃える記念碑として築造されたのではないかという見解を披露したことがある。けだし、心して聞くべき卓見である。

というのも、秦始皇帝が遺した巨大地下墳墓は絶大な権力を掌握した始皇帝という権力者一人のための墓であり、ほとんど生前そのままの有様を実物大の兵士や馬で再現しようという権力者の執念のすさまじさには圧倒されるが、そこには一片の祈りも祭りも存在しなかったことを感じてしまうからである。

大陸と日本列島における墳墓についての、この彼我の違いは何なのだろうか。わが国でも豊かな副葬品を伴う古墳を狙った盗掘は確かにあった。だが、たとえ恨み骨髄に達する敵に対しても、その墓を暴き骨に鞭打って辱めるような報復手段は、わが国では一般的な賛同を決して得ることはない。わが列島においては死者を冒涜することは人してあるまじき行為だと考えられているからである。

そういう目を以てクルガンを見ると、そこには秦始皇帝陵にあるような絶対権力者のすさまじい執念というよりは、稲村公望の卓見が教えるような、共同体の祈りの如きものを感じることができる。

ただし、繰り返すが、クルガンに関しては、いまだ確たることは何も言えない状況に変わりはない。


このシリーズの第15回、「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」も、本稿の最後に転載しておいたので関心のある読者は一読願いたい。ともあれ、日本の古墳の原型となったクルガンの発掘調査は、ようやく緒に就いたばかりであり、今の段階では、確定的なことは言えないということが上掲の文章でわかる。だが、クルガンがツランの地で誕生したという史実は、極めて重要な意味合いを持つ。

母語はその人の思考形式、言動を根底から支配していると、亀さんは日ごろから考えているのだが、上の稲村公望さんと天童竺丸さんの言に従えば、ツランのクルガンと、秦始皇帝の地下墳墓との決定的な分水嶺は、膠着語族(ツラン)と孤立語族(秦王朝)にあると言えないだろうか。斯様に、母語というものは、人の思考形式を決定的に左右するものなのだ。ここで、フンボルトが提起した言語形態学だが、世界の言語を、孤立語・膠着語・屈折語の三つに分類している。では、何故に孤立語、膠着語、屈折語なのか、何故に言語によって人の物の見方・考え方が変わってくるのか、といったテーマは興味深いものがあるものの、本稿のテーマと外れるので今回は割愛する。

ともあれ、上掲の天童論文で明らかなように、膠着語系民族と孤立語系民族との間では、墓地や埋葬一つとっても違いが生じてくるものなのだ。このあたり、膠着語系の一人である亀さんは、拙稿「アルゼンチンで思ふ(3)」で以下のように書いた。

NHKの「縄文1万年の美と祈り」という番組を見ていた時、縄文人の死生観「再生」のシーンに目が釘付けとなったことを告白しておきたい。つまり、再生のシーンに深く共鳴する自分がいたのであり、朧気ながらも自分に縄文人の血が流れていると、直感的に悟ったのである。


さらに、別稿「縄文の息吹」で亀さんは、英国のストーンヘンジと日本の大湯環状列石を紹介しているが、これは、日本に古墳が出現する前に縄文人が持っていた、自然観(太陽信仰)を示すものであり、栗本氏も以下のように書いている。

古墳時代が始まった後のこと、そこにさらに太陽信仰やシリウス信仰を基礎とし、やがては仏教の弥勤信仰に繋がる「聖方位」(正面の方位を真北から西に二〇度傾ける)が意識的に持ち込まれることになった。縄文時代から日本列島にあった太陽観測のネットワークは冬至夏至時の日の出日没地点から諸般の方位をとるものだった(第四章参照)が、それがこの新たにシリウスの位置を軸にした方位のベースとなったのだ。

 この聖方位は北のシルクロードから北日本へ入り、そこから日本全国へ伝播した。聖方位は中央アジアやモンゴル高原に今もたくさん遺跡において見出されるが、そこが聖方位の起源の地だというわけではない。北シルクロードの要衝セミレチアのソグド人都市(居住地)はほとんど聖方位をもって建設された(第四章参照)し、セミレチアから南へ下がった砂漠地帯のオアシス都市サマルカンドほかにも意識的な聖方位が見出される。

太陽信仰あるいはシリウス信仰あるいは星展信仰あるいは「天」の観念とともに遠くはペルシアを起源とするが、あるいはもっと時代も西へも遠く遡ってバビロニアやコーカサスを起源とすると考えるほうが妥当だ。なぜなら意識的な聖方位がペルセポリスだけでなれく、バビロンやコーカサスにも見出されるからである注6。蘇我氏は重要な都市や建物や宗教施設の配置においてそれにこだわり、聖方位は飛鳥京建設を含む蘇我氏の活動の象徴となったのである。

飛鳥とペルセポリスが繋がるという指摘はこれまでもいくつかあった注7。これを私は、飛鳥はペルセポリスだけでなく(もちろんサマルカンドは言うまでもなく)バビロニアやコーカサスと繋がったものだと考える。

かくして三世紀以降、北シルクロードから渡来した人々が宗教や政治の主体となったわけだが、これらの集団の最終的代表が蘇我一族であり、聖徳太子(で象徴される一団)であろう。

注6 聖方位論は『シリウスの都 飛鳥」において詳しく展開した。
注7 たとえば井本英一『古代日本人とイラン』学生社、東京、一九八〇年、伊藤義教『ペルシア文化渡来考』岩波書店、東京、一九八〇年ほか多数。特に、渡辺豊和『扶桑国王蘇我一族の真実』新人物往来社、二〇〇五年。

『シルクロードの経済人類学』p.1;9~20


ともあれ、ツランの一部の民族が日本列島に流れ着き、やがて各地に豪族が誕生した。そして、南九州の古墳を起点に、日本各地に古墳文化が広まっていった、ということになる。

次稿では、日本の古墳文化の起点となった、南九州の古墳群に目を向けてみることにしよう。

【追補】
18122103
「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」1/3

18122104
「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」2/3

18122105
「墳丘墓(クルガン)が発展し前方後円墳となった」3/3

18122106
「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」1/2

18122107
「マリア・ギンブタスとクルガン仮説」2/2

2018年12月18日 (火)

古墳時代 01

人生は冥土までの暇つぶし
「北満州と日本列島」シリーズを終え、「古墳時代」シリーズを本格的にスタートする前に、前稿「北満州と日本列島 05」で取り上げた、飯山(一郎)さんの「外圧と占領」という視座で、簡単に飯山史観の御浚をしておこう。

■第1回目 - 旧人から新人へ
日本列島の「外圧と占領」が過去に8回半あったとする投稿を、飯山一郎さんが掲示板「放知技」に投じた。その第1回目だが、飯山さんは以下のように書いている。

第1回目は,紀元前1万5千年前頃.コロポックル小人族や石器文化人が住む日本列島に土器文化人が侵入.縄文文化が始まる.


亀さん流に書くとすれば、以下のようになる。

第1回目は,紀元前10万年以上前、日本列島に来て定着した旧人のテニソン人などに代わって、4万年前あたりから新人の狩猟型縄文人が日本列島に徐々に流れてきて定着、やがて、狩猟型縄文人が大勢を占めるようになったのが紀元前1万2千年前頃であり、その時期を以て縄文時代の始まりとする。


縄文時代の始まりだが、飯山さんは「紀元前1万5千年前頃」、亀さんは「紀元前1万2千年前頃」という、ちょっとした違いがあるにせよ、このあたりについては今後の発掘調査に待ちたい。また、飯山さんは「ロポックル小人族や石器文化人」、亀さんは「旧人のテニソン人など」といった違いもあり、このあたりも今後の発掘調査を待つことにし、現段階では保留にしておこう。

ただ、ウィキペディアの「縄文土器」の項目にあるように、縄文土器の出現が約1万6000年前であることから、飯山さんの言う紀元前1万5千年前頃は、まだまだ狩猟型縄文人が主流派だったと、亀さんは思っている。

それはともかく、拙稿「北満州と日本列島 02」で亀さんは、縄文人の遠祖にあたる現生人類が、「4万年前頃に舟に乗った新人が日本列島に到達し始めた」という説を紹介しており、10万年以上前から日本列島に住み始めていた旧人と、4万年前から住み始めた新人の縄文人は、日本列島が峻険な山国であったということもあって、しばらくは大きな争いもなく共存していたのだろうと想像している。しかし、1万2000年前あたりから、日本列島のあちこちを移動していた狩猟型の縄文人、すなわち石器型縄文人が大勢を占めるようになり、次第に旧人は追い詰められ、やがて新人が日本列島の主となって縄文時代が始まった、と亀さんは思う。

そして、4万年前に日本列島に流れてきた狩猟型縄文人の中から、約1万6000年に土器が発明された、あるいは土器を携えて土器型縄文人が日本列島に流れてきたのだろう。そして、その土器こそが、移動型から定住型の縄文人になったきっかけである。やがて、土器の普及に伴い、第2回目の「外圧と占領」に突入した、ということになる。

ここで、何故に土器が定住のきっかけになったと亀さんは思うのか…。それは、土器が縄文人の定住を促したからである。このあたりについての論証が、世界戦略情報誌『みち』にある。それが以下の記事で、縄文人が移動型(狩猟型)から、定住型(土器型)に推移した経緯を知る上で、必読の記事だ。
定住革命の先駆者となった日本 2

■第2回目 - 土器から稲作へ
第2回目の「外圧と占領」について、飯山さんは以下のように記している。

第2回目は,紀元前5千年頃.定住稲作民族が移住してきて,移動型の縄文人に代わり農作定住民族が主流になる.いわゆる「弥生時代」.


やはり、ここでも亀さん流に第2回目を書いてみよう。

日本列島の新人、すなわち縄文人が石器型(狩猟型)から、土器型(定住型)の文化に変わっていった。そして、土器を手にすることにより定住する縄文人が増えていったのである。やがて、水田稲作を知る縄文人が紀元前5千年頃から、日本列島に流入、時の経過とともに日本列島は稲作型縄文人が、狩猟型縄文人に取って代わるようになり、そうした時代が古墳時代に突入するあたりまで続いた。


つまり、1万2000年前に土器が誕生して広まり、やがて5000年前に稲作を知る縄文人が日本列島に流入するようになり、土器型縄文人の代わりに稲作型縄文人が主流を占めるようになったのが3000年前(紀元前10世紀)、ということになるのではないだろうか。そのあたりから古墳時代に突入するまでの時代を、「弥生時代」と世の中では定めているようだが、実は、基本的に弥生時代というのは名ばかりで、本質は縄文時代と大差がなかった、すなわち弥生時代イコール縄文時代だったのである。

これは、どういうことか?

このあたりを理解するには、世界戦略情報誌『みち』の天童(竺丸)編集長の論文が必読となる。なかでも、「定住革命の先駆者となった日本 2」に重要な解が隠されている。すなわち…

定住するとは、家を造ってその中に住みつづけることであり、移動生活には不便な重い土器を作って使用することも定住の生活だからこそ可能になる。 世界でもっとも古いといわれる縄文土器の画期的意味について安田喜憲氏はこう力説している。

 僕は、土器というのは森の産物だと考えています。温帯の森の資源利用のなかから生まれたものです。土器を作るには、まず軟らかい土がないと駄目で、それには森林土壌が最適なのです。焼くためには燃料の木が要る。こねるためには水が要ります。森にはそのすべてが揃っている。……

 土器を作り出したことは、非常に革命的なことです。違う種類のものを一緒に煮て、違う味を出せるわけです。海からハマグリを、山からは木の実や山菜を取ってきてごった煮にすれば、まったく違う味が出る。それから煮沸しますから殺菌にもなる。煮ることで普通は食べられないものも柔らかくして食べられる。ですから、土器を作るというこ
とは、「食糧革命」でもあったわけです。(『環境と文明の世界史』五一~五二頁)


繰り返しになるが、土器の普及が縄文人をして定住を促し、稲作が広まったことで、定住が本格的になったということだ。これが、定説となっている「紀元前10世紀に弥生時代が始まった」につながるのである。このあたりの検証は、世界戦略情報誌『みち』の天童編集長が書いた論文、「縄文農耕の成熟と弥生水田稲作」の以下の記述を思い出していただきたい。

集団的労働システム運営の域にまで達していた縄文農耕の成熟を意図的に無視し「野蛮な狩猟採集経済段階」と決めつけた上で、渡来人による水田稲作の開始と弥生生活革命、それによる人口爆発などを描いて見せたNHKの『日本人はるかな旅』が、考古的・歴史的事実を歪曲する児戯にも等しい欺瞞であった。


つまり、われわれが教科書やNHKの番組(「日本人 はるかな旅」)を通じて、知り得た弥生時代のイメージは、大凡以下のようなものではないだろうか。

水田稲作が大量の渡来人によって日本列島にもちこまれて生活に一大革命が起こり、それが弥生時代という新時代の始まりとなった。


だが、これは全くの出鱈目であることは、前稿「北満州と日本列島 05」ですでに述べた。

要するに、基本的に弥生時代という時代は、そのまま縄文時代を引き継いだ時代だったであり、定説の「縄文時代→弥生時代→古墳時代」という図式は間違いで、本当は弥生時代を飛ばした「縄文時代→古墳時代」という図式が正しかったのである。このあたりについて実証している論文こそ、天童論文の一つである「渡来人は列島に埋没同化して姿を消した」だ。

 すなわち、紛れもなく朝鮮半島由来の土器を使用した人々が住んでいた痕跡が北部九州には存在する。しかし、それは独立した「渡来人集落」ではなく、すでに存在していた弥生式土器を使用する人々の集落の中に渡来人がいた、という程度の規模であった。しかも、長期間存在したとされる土生タイプも「一〇〇年後にはこの土器技法も弥生土器文化の中に埋没、土器もろとも同化され、姿を消した」(片岡宏司)のだった。これが「大規模な渡来」の本当の実態だったのである。


さて、石器型現生人類から土器型現生人類を主流としていた縄文時代、それに続く第二の縄文時代である〝弥生時代〟が、ついに終わりを告げる時が来た。

■第3回目 - 土器から古墳へ
第2回目の「外圧と占領」について、飯山さんは以下のように記している。

第3回目は,西暦紀元前後,古墳文化をもつ豪族たちが侵入してきて,日本は豪族・古墳文化の時代になる.


飯山さんの第3回目の記述に、亀さんも概ね同意である。

ところで、ここで頭から離れない従来の疑問を思い出した。それは…

何故にユーラシア大陸で古墳が誕生したのか。シャーマニズム、あるいはツランに共通する膠着語という言語が関係するのか…。また、古代人にとって、古墳とは一体全体何だったのか?


というものである。これについては次稿以降で展開していこう。時代を少し遡るかもしれないが、再びユーラシア大陸に視点を移すことになる。

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     『シルクロードの経済人類学』

【追伸】
放知技の小ボンボンさんが、以下のような投稿を行った。

稲の発祥は日本!
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16557737/467/


ソー言えば、上記の飯山さんの私見を、直接本人から聞いたような、いないようなwww

そして、小ボンボンの投稿を読んで咄嗟に思い出したのが、栗原茂さんの以下の記述であった。

過去と未来の連続性を保つものには、何事も前段があり、その原点を幼稚(ようち)と思うのは大間違いであり、その原点が付加価値(ふかかち)をもつからこそ、未来に及ぶ技芸(ぎげい)の磨錬(まれん)に通じて、その労働の成果が潜在力となり、それら遺伝情報が培わ(つちか)れるがゆえ、現在という場を乗り越える力が発揮(はっき)できるのだ。家紋も同位相であり、通説は縄文時代に土器が出現したといい、一万二〇〇〇年前説から一万六五〇〇年前説まであるが、無文と別に、豆粒文、(とうりゅうもん)爪形文(つめがたもん)、隆起線文(りゅうきせんもん)、磨消縄文な(すりけしじょうもん)どの出土があるという。これこそ後に氏が家紋を用いる原点であり、それは草木(そうもく)の自生種観察(かんさつ)と稲類の栽培(さいばい)に端(たん)を発するのだ。
◆舎人家紋講座24

2018年12月17日 (月)

高麗神社と皇室

人生は冥土までの暇つぶし
18121605
高麗神社

平成最後となる来週の天皇誕生日(12月23日)、放知技の数名の道友と一緒に高麗神社を訪問して参拝するが、訪問に先立ち、予習の意味で本稿をアップさせていただく。

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右端は高麗宮司

昨年の9月20~21日、天皇皇后両陛下が埼玉県を御訪問、高麗神社に御親拝され(天皇家と高麗神社)、かつ渋沢栄一記念館を御視察されている。渋沢栄一と言えば、近代日本の礎を築いた人物であると同時に、徳川慶喜公の信任が大変厚い人物であった。そのあたりは、落合莞爾さんが著した『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』、「第七章  慶喜と大政奉還」にある、「渋沢栄一の衷情が滲む『慶喜公伝』」に目を通せば、自ずと納得いただけよう。

一方、両陛下の高麗神社ご訪問を巡ってAERAが、「朝鮮半島からの渡来人にゆかりのある日高市の高麗神社への参拝を巡り、ちょっとした騒ぎが起きた」などと書いていたが、そんなことよりも亀さんが注目したのは、「境内に若光の石碑が建立され、除幕式には高円宮家の久子さまも出席されています」という高麗文康宮司の発言、そして高麗宮司に陛下が御下問されたという以下のお言葉である。高麗宮司とは過去に幾度か会っているが、どのように宮司が陛下に回答したのか、次回訊いてみたいと思っている。

陛下 :高句麗や百済などの国がどうして滅んだのか。


それから、以下は2016年4月23日に撮影された写真、「高麗神社に建立された石碑の除幕式に臨席された高円宮妃久子さま」である。

18121602

ちなみに、来年は天皇になられる皇太子殿下も昭和51年、同神社を参拝されている。また、同神社には大勢の政治家も参拝しており、そのうちの六名が後の総理大臣に就任した。さらに、あの川島芳子も同神社を訪れているのだ(川島芳子 生死の謎)。

ここで、読者は思うことだろう、「高麗神社とは一体、どういう神社なのか?」と。このあたりの謎を解くヒントは、上に示した高麗宮司への陛下からの御下問にある。拙稿「まぼろしの古都」を一読いただきたい。

この高麗王若光と同じ時代の空気を吸っていた人物に天武天皇がいた。天武天皇とは一体何者だったのかについて、未だに多くの謎に包まれているのだが、その天武天皇と高麗王若光についての貴重な記事が昨秋、世界戦略情報誌『みち』(平成25年11月15日号)の「巻頭言」に掲載された。以下に一部を引用しておこう。

  天武天皇による「複都制」の構想は、歴史的に突厥と渤海、そして遼の都城構想に連なるものであり、しかも恐らくはそのいずれに対しても歴史的に先蹤となる地位を占めている。ただ惜しむらくは、天武天皇がこの複都制構想に基づく都城を建設することなく崩御され、わが国において五京制が陽の目を見ることなく終わったことである。

     もし、天武天皇がもう少し長生きをされ、わが国に「五京制」を実現されていたとすれば、難波京と飛鳥京の外に、信濃佐久京と能登福良(ふくら)京(石川県羽咋郡富来町福浦)、そして武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)という三京を置かれたのではなかろうか、と想像を逞しくしている。福良京は後に渤海使節のために「能登客院」が設置され(ようとし)た地で、武蔵高麗京は高句麗遺民の若光王のため高麗郡を置いた地(現在は高麗神社がある)である。

天武天皇が構想したという「複都制」を目にし、咄嗟に思い出したのが旧ブログで取り上げた、栗本慎一郎の『シルクロードの経済人類学』だった。つまり、天武天皇の出自は草原の民、すなわち遊牧民だったのかもしれないと思うに至ったのである。第一、そうでなければ草原の民独特の「複都制」構想が、出てくるはずがないではないか…。その天武天皇の寿命がもう少し長かったら、武蔵高麗京(埼玉県日高市及び飯能市)が都の一つになっていたかもしれず、改めて幻(まぼろし)の古都に住んでいることの不思議さを感じた。


上記に栗本慎一郎氏の名前が出てくるが、『栗本慎一郎の全世界史』p.198にある以下の図をご覧いただきたい。この図については、亀さん的に幾つか納得のいかない点がある。たとえば、「北魏」。栗本氏の図からは、北魏と日本の〝深い〟交流について示されていないが、亀さんが「青州で思ふ(3)」に書いたように、「奈良の平城京は北魏の平壌がモデル」であったことを思えば、何故にこのあたりを栗本氏は言及しなかったのか、腑に落ちないのである。このあたりは、いずれじっくりと確認していきたいと思う。
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2018年12月14日 (金)

パワフル爺さん

人生は冥土までの暇つぶし
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へっぴりごしさんは、精力的に大量のブログ記事を、連日のようにアップしている、超パワフルなGIII(爺)さんである。アップしているのは、世界や日本の政治や経済といった記事が主なのだが、時には身近な記事もある。たとえば、最近の記事で目が留まったのが以下の記事…
繰り下げ受給PR=「ねんきん定期便」見直し-厚労省

へっぴりごしさんは、以下のようなコメントを残している。

余程「健康に自信」があり、65歳過ぎても「生活できる年収」を確保出来なければ、申請しない・・・鴨ネ。

65歳以上で70歳まで、「職に着ける人」はどのくらいいるのでしょうか?


65歳の誕生日を迎える直前、「死生観を持とう」という記事を亀さんはアップしているが、その中で以下のように書いた。

年金の支給開始は70歳からでE-


これは、へっぴりごしさんの言葉を借りれば、「健康に自信」がまぁあり、「生活できる年収」を70歳までソコソコ確保できると判断したからだ。亀さんは20年近く英日翻訳で生計を立てており、事故に出遭ったり、病気にでもならない限り、70歳まで現役を続けていく自信はある。尤も、流石に五十代の頃のように、睡眠時間を除く一日16時間仕事に没頭するという集中力はなくなったものの、「語彙力」は少しずつだが、伸びているのではと何となく思っていたんだが、最近、それを証明してくれる記事に出会った。それが以下の記事だ。
「能力のピーク」が40代以降に来る人の思考法

同記事には、以下のようなイラストが掲載されている。

18121301

イラストを見ると、「語彙力」のピークは67歳とある。だから亀さんの場合、これから「語彙力」ピークを迎えるということらしい。この語彙力を磨く上で亀さんが必ず目を通しているのが、「山岸勝榮の日英語サロン」というブログだ。山岸先生は大学の元教授だが、定年後の今でも、毎日精力的にブログ記事を書き続けておられ、そのバイタリティーには頭が下がる思いだ。そして、先生のブログ読み続けることでブラシュアップできるのは、何も英語だけではない。 ナント! 日本語もブラシュアップできるのでR。

語彙力? 俺(私)はブログをやっているわけでもねぇし、関係ネーなどと言わないでいただきたい。過日の拙稿「スピーチは自己啓発の原点」で紹介した、『話す力が身につく本』という本にも書いてあることだが、相手に理解してもらえるように話すには、相手に自分の思いや考えが確実に伝わる文章力が必要だ。つまり、話す・書くという能力は両輪の関係にある。

最後に、拙稿「死生観を持とう」にも書いた以下の真実、この機会に改めて噛み締めてみようではないか。

・人は必ず死ぬ
・人生は一回しかない
・人は何時死ぬか分からない

2018年12月12日 (水)

日経225先物チャートで反発ポイントを探る

文殊菩薩

日経225先物チャートで反発ポイントを探る


短期的な下値目処の確認方法は?

休むも相場。お茶とみかんで・・・
(↓日経225先物日足チャート)
Nikkei225

軟調な相場が続いているが、現在は上下繰り返し
チャートを整えている局面でもある。

このような時は【待つも相場】も一つ。
お茶を飲みながら、『ビタミンC』を含んだみかんを食べて
抗酸化作用による活性酸素除去!&免疫力向上で風邪予防!
体調管理・健康管理も相場には重要だ。

で、日経225先物の日足チャート。
12月7日の【長い下ヒゲ出現】により下値支持線が
描きやすくなっている。

日中値動きの中で・・・
日経225先物がその下値支持線付近に接近した局面では
日経平均も反発に向かう可能性が高くなる!

上記チャートのように安値を結んだ【青線ライン①】が
今後の短期的な下値目処。
(右下がりの【赤線ライン②】は・・・
さらに深く下押した場合の下値目処)

あ、先ほどのお茶&みかん。無農薬・無化学肥料!
他では中々買えない『かんだい・ネットショップ』のみの商品です。
とにかく本物志向!
(お店の入り口は右上へ。もしくはここです!))



酒田宗休 (S&I Stock Analysis Party)

2018年12月 7日 (金)

おっさんの秘みつ

人生は冥土までの暇つぶし
今日は、堺のおっさんの重要なヒ・ミ・ツを書く。

過日、大阪で行われた「故飯山一郎氏を送る会」で、堺のおっさんが司会を務めたわけだが、前日の堺のおっさんは風邪気味で、とても声を出せるような状態ではなかった…。

そこで、堺のおっさんがとった方法が凄い。

18120501
http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16563101/37/

ナント、蜂蜜で危機を乗り越えたのだとwww。実わここ数年、亀さんも蜂蜜を愛用している。三日前も「志布志の秘みつ」つうホンモノの蜂蜜を、かんだい・ネットショップに注文したばかりだ。

18120502
志布志の秘みつ

蜂蜜と言えば、五月に飯能市で開催されたツーデーマーチの前の晩、出世外人さんが拙宅に泊まってくれたんだが、コーヒーに蜂蜜を入れると美味い象…、と冗談で言ったら、本当に、蜂蜜を入れてゴクリゴクリと飲んでいた… ∑q|゚Д゚|pワオォ!!

ところがである、後にネットで確認したところ、ナント! コーヒーに蜂蜜を入れて飲むのが、今日ではトレンディなんだとwww
はちみつとコーヒーの相性は意外に合う!

それにしても、コーヒーはブラックで飲むのが、大人の飲み方とばかり思っていた亀さんなので、コーヒーに蜂蜜なんて豚でもないと、今までは思っていたんだが、これからわ考えを改めなければならないようだワイ。

ここで、「みつばちの大地」と題する記事を、数年前に書いたのを思い出した…



ところで、堺のおっさんは投稿に、「おっさんの若さの秘密」と書いているんだが、風邪を直すのと若さの秘密とは、関係ないと思うんだが…

【グリコのおまけ】

2018年12月 4日 (火)

北満州と日本列島 01

人生は冥土までの暇つぶし
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北満州と日本列島

アフリカ大陸で誕生した人類がユーラシア大陸に進出し、人類初の文明(ミヌシンスク文明)がシベリアの地で誕生したという、ラフスケッチを前稿(ミヌシンスク文明 02 )で一応描き終えたので、今回から視点を移して、東アジア、すなわち北満州(上図右上の桃色部位)と日本列島に焦点を当ててみたい。

北満州と日本列島についてだが、亀さんが思索を巡らせたテーマは主に二つあった。

一つは、満州の一部である北満州(外満州)の地で誕生した、〝遼河文明〟についてである。この〝遼河文明〟は〝黄河文明〟および〝長江文明〟と並び立つ、中国の〝三大文明〟の一つとして世間では捉えているようだ。その〝遼河文明〟はウラル系民族が興したものであり、その後にツングース系民族が北満州に進出してウラル系民族にとって代わり、さらにその一部が日本列島に渡航したということになる。換言すれば、ツングース系民族こそが我々日本人の祖先というわけだ。

18120403
文明の出発点、南シベリア(『栗本慎一郎の全世界史』p.76)

さて、上掲の「文明の出発点、南シベリア」を見ていただきたい。栗本氏は人類初の文明をミヌシンスク文明としているのだが、このミヌシンスク文明は前稿の天童竺丸さんの論文「ミヌシンスク文明再論」にもある通り、時間を遡っても紀元前3500年のアファナシェポ文明(紀前3500~2000年)がせいぜいである。一方、〝遼河文明〟が誕生したのは、ナント、紀元前6200年前に遡る。

ここで、上掲の「文明の出発点、南シベリア」に描いた、紫色の円で囲んだ箇所に注目すれば、北満州から南シベリアへと矢印が向かっている(逆ではない)のにお気づきと思う。つまり、栗本氏は明らかに、北満州で誕生した諸文化の方が古いことを知っているのである。それなのに、栗本氏は〝遼河文明〟を最古の〝文明〟と呼んでいない…。何故だろうか?

これは、栗本氏の考える文明と文化の定義にある。少々長文になるものの、以下を一読されたい。

われわれが文明と呼んでいるのは、各地(各国)や各民族の固有の文化をいくらかの地域的まとまりをもって捉え、かつ時間的にいささかの長さの中において考えられるものである。つまり、一定の時間的継続を持ちいくつかの文化と地域をまとめる諸文化の総合を文明という。

その総合や統合、時には統治のあり方は文明の性格の重要な要素であって、われわれはしばしば建物や美術・工芸にばかり目が行きがちになることを抑えねばならない。宗教と交易のあり方は普通、非常に密接なものであって、そのことは王や皇帝の統治の基本にも大きくかかわるものである。私たちはこの前提(宗教と交易のありかたを重視する)を持ちながら、はじめてローマ文明であるとか中国文明、エジプト文明、メソポタミア文明というものを考えることが出来る。だから、交易を考える経済人類学者は歴史の記述に強い関心を持ってきたのだ。

文明とは時間的にも地域的にもある程度の限定があるのだ。たとえば、ローマ文明の概念や成果の中に中世や近代のイタリア文化は含めない。もちろん、現代イタリアにローマ文明の影響があるのは当然だがそれは別問題だ。

また、日本文明という言葉が使われないのは、文明と言うには日本文化の根付く地域が狭すぎるし、日本文化がある一定の期間にだけ特別の性格を持ったということが認められないからである。つまり、地域的にはまとまりが小さすぎ、かつ時間的にまとまりがなさすぎるから文明とは言わない。

一方、文化のほうは、むしろ広がりよりもまとまりや深まりを持つもので、かつ時間的には文明よりも長く、時には永遠に続くものだ。日本文化という場合、あきらかにそうであろう。その場合、もちろん、重要な要素は変化変容することもあるが、いくつかの重要な要素は不変であることが多い。だから、日本文化は世界的にも顕著な根強いものとして存在するのだ。

『ゆがめられた地球文明の歴史』p.20~21


つまり、〝遼河文明〟は文明として、栗本氏の定義に当てはまらないということなのだ。そのあたりを理解するキーワードは、下線で示した「経済人類学」である。

ここで、〝遼河文明〟の中で誕生した諸文化を整理した、サイトがあるので以下に紹介しておこう。同サイトは中国文明、すなわち〝黄河文明〟、〝長江文明〟、〝遼河文明〟で誕生した諸文化を紹介しているサイトなのだが、同ページを下にスクロールしていけば、四分の三あたりに〝遼河文明〟で発生した諸文化の解説に行き着く。
東アジアの古代史

同サイトも、〝遼河文明〟だの、倭国=日本だのと書いているwww。それはともかく、少なくとも亀さんが確認した限り、栗本氏のように経済人類学に立脚した視座で、文明と文化を捉えているサイトに今までに出会ったことがない。この経済人類学については、栗本氏の経済人類学関連の書籍、あるいは栗本氏が私淑していたカール・ポランニーの一連の著作、例えば『経済と文明』あたりがヒントになるが、本稿では割愛する。

次に、北満州と日本列島について、亀さんが思索を巡らせたもう一つのテーマは、日本列島に関するもので、4~3万年前に確実に存在していた日本列島の旧石器時代の人々、そして1万6千年前に縄文時代に突入し、弥生時代を経て古墳時代に入るあたりまで、日本列島に流れ込んできた人々についてである。このあたりは、長くなりそうなので次稿以降に回したい。

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アムール川

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