トップページ | 2018年8月 »

2018年7月

2018年7月31日 (火)

飯山一郎先生の最終講義(6)

文殊菩薩

飯山一郎先生の最終講義(6)

201807302234007af
焼酎を飲みながら『志布志事件』を語る飯山一郎先生

飯山一郎先生のご自宅に戻り、大久保酒造の焼酎ハイを飲みながら先生から伺ったのは恐ろしい『志布志事件』の顛末であった。

『志布志事件』とは警察が県議会議員選挙の汚職をでっち上げて、十数人の人々を冤罪で不法逮捕して長期拘留した事件である。

県議会議員に当選しながら事件の濡れ衣を着せられて逮捕され、議員辞職に追い込まれたのが大久保酒造の中山信一社長だった。

中山氏は妻と共に警察から一年近くも不当に留置され厳しい取り調べを受け、選挙の支援者たちも不当に証拠もなく逮捕されたという。

最終的に中山氏の嫌疑は晴れて無罪となったのだが、中山氏を落として繰り上げ当選を狙う議員らに組織的にはめられた事件だった。

さらに恐ろしいことに、事件のでっちあげに関わったとみられる県議会議員が、二人も交通事故などで不審な死を遂げているという。

中山氏によれば、飯山一郎先生は罪をでっちあげられた人々に同情し、時には権力に抗して立ち上がる義侠心ある男だったという。


野崎晃市(44)
2018-07-30(22:39)

2018年7月30日 (月)

飯山一郎先生の最終講義(5)

文殊菩薩

飯山一郎先生の最終講義(5)

20180729212449756
焼酎工場の前に立つ飯山一郎先生

横瀬古墳のすぐそばには焼酎で有名な大久保酒造の工場があり、そこには焼酎カスを処理するためのグルンバが稼働している。

ここで処理された焼酎カスは近くの畑にまかれて、難しいと言われている古代米の栽培に最適な土壌を作り出すという。

大久保酒造の工場は数カ所あるが、横瀬古墳の近くにある工場は酵母菌が土地に住み着いて焼酎の味が格別なのだという。

乳酸菌も酒造に使用するこうじ菌も同じく菌類なので、乳酸菌の培養には酒造の杜氏のようなカンと経験が必要なのだとか。

ここは菌類から人間まで生命が共存し助け合う豊かな環境の中、古墳を見ながら古代米を栽培するロマンが感じられる場所なのである。

野崎晃市(44)
2018-07-29(21:29)

2018年7月29日 (日)

飯山一郎先生の最終講義(4)

文殊菩薩

飯山一郎先生の最終講義(4)

201807282242418ca
大慈寺を案内する飯山一郎先生

鹿児島と朝鮮半島の結びつきを示す証拠として、飯山一郎先生に大慈寺に収蔵されている秘仏を案内していただいた。

大慈寺の開祖である玉山和尚は中国で八年にわたり修行した名僧で、寺には僧侶が琉球や中国からも学びに来ていたという。

大慈寺は島津家ともかかわりが深く、賽銭箱には島津の家紋が入っており、西郷隆盛や大久保利通も訪れ座禅を組んでいたようだ。

また明智光秀の子孫が逃げ延びて大慈寺の僧として身を隠し、秘かに明智家復興のための財宝を近くに隠したとの伝説もあるとのこと。

飯山先生によれば、lこの寺には外部に公開されていない秘仏が収蔵されており、その仏像は百済様式のかなり古いものであるらしい。

大慈寺は薩摩藩と海外との密貿易の関係を示す証拠であり、また明治維新の思想的源流の一つとしても重要な文化財であるようだ。

野崎晃市(44)
2018-07-28(22:45)

2018年7月28日 (土)

飯山一郎先生の最終講義(3)

文殊菩薩

飯山一郎先生の最終講義(3)

20180727223635995
即心院跡を訪れた飯山一郎先生

飯山先生のお住まいは、志布志港からほど近くの小高い山の上にあったが、志布志港にも明治維新の秘密が隠されているという。

志布志港は薩摩藩が密貿易を盛んに行っていた拠点で、港の近くには千軒町と呼ばれる貿易商人の倉が並ぶ場所があった。

薩摩藩が密貿易によって蓄えた豊かな財政と、外国との通商によって培ってきた人脈や交通網が明治維新の基礎となったそうである。

飯山先生に案内していただいたのは港から近くにある即心院跡で、島津家第6代当主の島津氏久と夫人の墓が残されている。

島津氏久は南北朝時代に志布志城の城主として志布志を治め、中国の明に使者を派遣して中国や琉球との貿易を進めたそうである。

現在の志布志港も中国や韓国との貨物船が出入りしているが、中国向け木材の輸出が盛んで樹齢数百年の大木が運ばれることもある。


野崎晃市(44)
2018-07-27(22:39) :

2018年7月27日 (金)

飯山一郎先生の最終講義(2)

文殊菩薩

飯山一郎先生の最終講義(2)

201807260703247cc
石碑の前に立つ飯山一郎先生

古墳を見終わった後で、飯山先生に案内していただいたのは、志布志の田んぼの真ん中にある『肆部合の石碑』であった。

この石碑は南北朝の軍の衝突が起こった際に、戦闘で命を落とした北朝側の三人の武士を記念する供養塔なのだという。

楠木正成の死後に、南朝残党のわずかな勢力は鹿児島まで逃げ延びたが、ついに北朝の追っ手が迫り最後の戦闘が行われた。

この戦闘を最後に南朝側は鹿児島周辺の島々に逃れ、そこで明治維新の前夜まで人目を避けるように隠れ住んでいたという。

明治維新の立役者である西郷隆盛は、南朝を支持していた菊池一族の末裔で、南朝を守護し復興することを使命としていたという。

この石碑は南北朝の最終決戦がこの南端の地であった証拠であると同時に、明治維新の謎を紐解く重要なヒントでもあるそうだ。

飯山先生によれば、この石碑の近くには飯山と呼ばれる土地があり、飯山家の先祖は薩摩隼人であったとの説もあるという。

飯山一郎のルーツは戦のため関東に移住した薩摩隼人で、志布志は先祖が住んでいた土地なのかもしれないとのことであった。


野崎晃市(44)
2018-07-26(23:56)

2018年7月26日 (木)

飯山一郎先生の最終講義

文殊菩薩

飯山一郎先生の最終講義

2018072016272969c
飯山一郎先生の最後の姿

飯山先生が亡くなられる前日、筆者は先生に志布志の横瀬古墳へご案内いただき、先生から最後の歴史講義を聴くことができました。

古墳を遠くに眺める飯山先生の姿は何か神々しくもあり、まるで古代からタイムスリップしてきた仙人のようにも見えました。

志布志の横瀬古墳は典型的な前方後円墳ですが、近畿地方にある応神天皇陵などの古墳群より約100年も古い時代のものだそうです。

先生によれば、九州の大隅地方にある前方後円墳が近畿地方にある古墳の原型であり、九州から近畿へと古墳文化が伝わったのだそう。

つまり、通説のように中央から地方へではなく、九州から船で黒潮に乗って近畿へ移動した集団により古墳文化が伝えられたのだそうです。

飯山先生も日本南端の鹿児島から、日本全国はおろか世界に向けてユニークかつ刺激的な情報を毎日のように発信しておられました。

先生は、たとえ地方に住んでいても、ネットを通じて情報発信することで、世界中の志を同じくする人々と連帯できるのだと言っておられました。


野崎晃市(44)
2018-07-25(23:26)

トップページ | 2018年8月 »

フォト
2019年1月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

amazon&shop

  • SHARP プラズマクラスター搭載空気清浄機14畳用 FU-A51-W
  • SHARP プラズマクラスター搭載空気清浄機 8畳用 FU-A30-W
  • 横田めぐみさんと金正恩
  • SHARP サイクロンクリーナー ベージュ系 EC-CT12-C
無料ブログはココログ